今年の会報特別号はちょうどイースター(復活祭)と重なりますので、イースターが持つ意味について述べてみたいと思います。
復活祭はキリストが死から復活なさった事実を祝う祭日です。ですから、生きておられる神キリストがこの祭日の中心人物です。また、キリストは信じる人々を全く変えること
ができるお方です。復活祭を迎えるに当たって、人が生けるキリストによって変えられることについて述べてみたいと思います。
第一に、臆病な心が、勇気ある心に変えられます。キリストの復活を前後して、いかに弟子たちが勇敢な証人に変えられたかは聖書の伝えるところです。これは日曜学校の児童に教え、私たちも繰り返し聞くところです。
私たちは一度勇気が与えられても、意気消沈してしまい臆病になります。これをよく繰り返します。何が足りないのでしょうか。聖霊の力です(使徒の働き1章8節)。キリストが復活されてから聖霊は信じる者の内に宿り、求める者に勇気を下さいます。
第二に、自己中心的な生き方が、キリストを中心とする生き方に変えられます。心の中で信仰の対象人物がはっきりしていないとどうしても自分を主体とする考えが強くなり
ます。その結果、自分が自分をコントロール(支配)することになり、心は迷います。しかし、生きておられるキリストに信仰の焦点を合わせると、キリストを中心とする生活に
変わります(ガラテヤ人への手紙2章20節)。
そして、第三に、見える祝福から見えない祝福へと視点が移ります。誰にとっても見える祝福は喜びです。しかし、その祝福にも恐ろしいことが秘められています。地上の見え
る祝福が、信仰のもたらす最もすばらしい祝福であると錯覚することです。これは危険な思い込みです。もしそうであったら、天国は必要ありません。信仰による見えない祝福も
必要ありません。実は、見える祝福は見えない祝福の「本物の模型にすぎない」(ヘブル人への手紙9章24節)のです。見えなくても実存なさるキリストを見つめる者は、見え
ない祝福を求めるようになります。
キリストを信じる者は(少しずつ)変えられて、キリストの御姿に近づいてゆきます。族長ヤコブが変えられたように、誇り高いパリサイ人パウロが変えられたように、復活された主は、私たちが御自身の御姿に似る者となるよう、日々私たちを導いておられます。