- キリストのたとえ話 <教会便り 2006年8月号より> -
 聖書を初めて手にしたとき、その内容がわかりにくいことに気付きました。そのときから四十数年経った今でさえもわかりにくい個所は多くありますが、以前読み始めたとき、わかり易い個所もありました。それは、イエス様が語られた「たとえ話」です。或る「たとえ話」は今でも私の記憶にはっきりと残っています。

 現在私たちの教会では、日語部も英語部も、日曜礼拝メッセージにイエス様が語られた「たとえ話」をシリーズとして取り上げています。今回は「たとえ話」について考えてみたいと思います。一般論としてのたとえ話に三つの特徴を挙げてみます。

 第一に、たとえ話の効果は、わかり難いことをわかり易く伝えるところにあります。「良きサマリヤ人のたとえ話」を読むと、助けを必要としている人が自分の隣人であることが良くわかります。人を助けるときに難しいのは、誰を自分の隣人として見るかの判断です。普通に考えると、親族関係や人種や宗教等が最優先されるため、必要が無視されがちになり、その必要を満たそうとする判断が鈍ります。そして、自分の隣人が誰であるかがわからなくなります。そのような私たちにキリストは、親族関係や人種や宗教よりまず隣人の必要を優先することを語られました。

 しかしどんなにわかり易く語られたたとえでも、「わかりたい」と心に決めたその人だけがわかることができたのです。「種蒔のたとえ話」を終えられたとき、イエス様は「聞く耳のある者は聞きなさい」(マルコ4:23)と言われました。「聞く耳のある者」とは、わかりたいと願った人々です。しかし、聞く耳のない者、すなわち、わかりたいと思わない者もいたようです。

 第二に、たとえ話は行動を促す教訓です。聞いてそのまま何もせずにはおられない教えです。ルカの福音書18章1節に「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された」とあるように、このことばに続く「不正な裁判官のたとえ」を読んで、私たちが祈らない状態をそのまま続けるわけにはいきません。このたとえの主旨は、祈る行動を促すことばですから。「祈ることは大切なことだ」と思っても実際に祈り始めなければ、このたとえ話を充分理解したとは言えません。それは頭だけの理解になるからです。

 第三に、キリストのたとえ話から主の勢いが伺えます。真理の伝達には、語り手の意気込みが必要です。「わからせたい」意気込みです。人間の愛はそれを受けるにふさわしい条件を求めますが、神の愛は無条件で受けることができます。イエス様は、この違いを「放蕩息子のたとえ」で説明しておられます(ルカ15:11〜32)。ルカは恐らくイエス様が語られた話を要約して記述したに違いありませんが、それを読むと、神の愛の偉大さに心が躍ります。語られたイエス様のお気持ち、「どうしても神の愛をわからせたい」と言う意気込みが、読者に伝わってきます。真理を伝達するためには神の知恵と勢いが必要です。主イエスはなんと偉大な真理の伝達者ではないでしょうか。
- 最近掲載したメッセージ -

※項目名をクリックしていただくと、そのメッセージに関するページに移動します。

次回掲載分 クリスチャンの孤独感 教会便り 2006年9月号
前回掲載分 他の人を励ます(2) 教会便り 2006年7月号

※このページ下「牧師メッセージ集目次へ」をクリックしていただくと、目次ページに移動します。

トップページへ戻る 教会のご紹介 牧師メッセージ集目次へ 初めて教会へこられる方へ