- 誘惑を乗り越えるには <教会便り 2007年8月号より> -
 七月のバケーション中に二人の説教者から二つの同じようなメッセージを聞き、その内容の大切さを主が私に印象付けようと思われているのではないかと感じました。それで今月の巻頭言ではそのことを取上げることにしました。それは、罪の誘いが迫るときどのようにして解決するか、と言う問題です。答えをヨシュア記から学びます。

 将軍ヨシュアは三つの誘惑に直面しました。彼が直面した誘惑は、私たちも直面するものです。それらは私たちの信仰生活の敵です。ヨシュアはそれらを乗り越え、5年から7年にかけて群がる敵に勝利をし、神が約束なさった地を勝ち取りました。

 第一の誘惑は、罪を隠そうとする気持(自我の欲)です。ヨシュアの部下アカンは、部隊と共にエリコの町に攻め込んだとき盗みをし、それがあばかれるまで隠していました。主はその罪を民の連帯責任と見なし、民はその罪のゆえにアイでの戦いに敗北しました。神の前に告白されていない罪を持ったままの状態では、勝利することはできません。告白しないで済ませよう、隠しておくことが最善の策である、と思わせる誘惑に陥ると力が抜けてしまって戦うことはできません。ダビデは犯した罪を隠していたとき、無気力の状態に陥りました。「私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果て、、、(神の)御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり」(詩篇32:33〜34)と証言しています。「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない」(箴言28:13)と聖書は警告します。罪を隠しておこうとする気持を捨て去るのは自分です。他の人が代行することはできません。捨て去る者には勝利の約束があります(1ヨハネ1:9)。

 第二の誘惑は自分の力を過信する気持(優越感)です。エリコで勝利を収めた民は、新しい敵アイを侮りました。そのため、敵についてよく調べもせず無知なままで対戦し敗北したのです。自分は大丈夫だ、と思う気持は危険です。自分が勝ち得た過去の勝利に酔ってしまうと、敵の状態に無頓着(無知)に陥ります。使徒パウロはイスラエルの通った失敗や敗北から学ぶことを勧め、さらに「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」(1コリント10:12)、また、「だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。」(ガラテヤ6:3)と警告しています。この誘惑に陥らないため、私たちは、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ4:13)と言わなければなりません。

 第三の誘惑は主の導きを求めない気持(独善)です。ヨルダンの峡谷を後に、やっと登りきった高台で民はギブオン人の誘惑に陥りました。ギブオン人は、民が主の導きを求めなくても大丈夫であるかのような(偽りの)作り話を用いました。偽りを信じてしまった民は勝利を勝ち取ることができませんでした。「人々(民)は、、、主の指示を仰がなかった。」(ヨシュア9:14)と聖書は、民が敗北した原因を記しています。敗北の原因は、主の導きを求めない気持に流されてしまうことです。私たちについても同じことが言えます。どんなに優秀な人であってもその知恵は限られています。ですから神の優れた導きを求めることは、人間として最高の知恵であるはずです。ところが往々にして主の導きを求めない誘惑に陥り、限られた自分の知恵を最優先し、敗北の結果を招いてしまいます。この誘惑に陥らないためには、祈ることが唯一の解決策です。心を静めて聖書を読み、「主よ。私を導いてください」と祈れば、この誘惑から解放されます。「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。」(ヤコブ1:5〜6)と神は約束なさっています。
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