ソロモンの心が転じて、イスラエルの神、主を離れたため、主は彼を怒られた。
列王記上11:9
- <教会便り 2008年8月号より> -
日毎の聖書朗読のスケジュールが、初夏から「箴言」になり、ゆっくりとソロモン王の書き残した知恵の文書を読みました。読んでいる内に一つの疑問が起こり、それに答えてみようと思いつき、研究しているうちに榎本保郎著「一日一章」に私の疑問に関連する記事が見つかりましたので、七月、八月の二回に渡って連載します。私の疑問は、「ソロモン王は神からいただいた知恵を駆使して自分を守ることができなかったのだろうか」と言うものです。
― 大谷 文三
列王記の筆者はソロモンの生涯を評して「主の目の前に悪を行ない、父ダビデのように全くは従わなかった」と記している。主イエスが「だれも二人の主人に兼ね仕えることはできない」と言われたように、信仰の世界においては二者に仕えるということはあり得ない。それが人格的といわれる信仰の特徴である。ところが、ソロモンは一方において神を愛し、他方において女を愛したのである。しかも彼は多くの外国の女を愛したのである。そのことは「あなたがたは彼らと交わってはならない。彼らもまたあなたがたと交わってはならない」との主の戒めを破ることであった。しかしソロモンは彼らを愛して離れなかった、と記されている。ここに彼が「全くは主に従わなかった」と評されたゆえんがある。
この世に生きているわれわれはこの世から出ることはできない。またこの世から逃避したのでは意味がない。肉を持つわれわれは肉の欲から離れることはできない。肉はいつも生きていて、われわれの思いを惑わそうとする。そういうわれわれが純一にただ神のみを愛するということができるのだろうか。全き神への生活などあり得るのであろうか。ソロモンを笑う前に自らを顧みるとき、だれ一人、自分は彼のようではないなどと言い切れる者はいないのではなかろうか。
使徒パウロはそういう自分に対して、「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」と叫んでいる。まさに神の前には自ら絶望するほかないのが私たちの本質である。しかし、パウロは決して絶望では終わらなかった。彼はそのあと「わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな」と賛美している。
救助隊の存在は遭難した者にとってのみその存在の意味がある。どんなすばらしい装備をした救助隊も、家で寝そべっている者にとってはあまり意味を持たない。
それと同様救い主も自らに絶望した者にとってのみ意味ある存在であり、自分の何かになお望みを持つ者にとってはあまりありがたい存在ではない。パウロは「自分のからだを打ちたたいて服従させる」と語っているが、この肉への挑戦、この世に対する訣別、こうした戦いなしに人は自分に絶望することはない。
私たちにとって問題なのは、この戦いを持たぬということである。神を愛し、その掟を知りながらも女を愛することから離れられない自分と戦わなかったところに、ソロモンの悲劇の始まりがある。主の怒りにふれながら、神を呼ぶことのできなかったところに神の祝福から落ちていった彼のみじめさがある。私たちは、もっと神のきびしさの前における自分の弱さに気づかなければならぬ。そのとき、私たちははじめて主を呼ぶ者となり、主の救いにあずかる喜びに生かされるのである。
榎本保郎著「一日一章」より