新年明けましておめでとうございます。また、キリストにあって私たちを新しくお造りになられた主に感謝と賛美を申し上げます。(2コリント5:17)
新しい年に私たちの教会のため何を期待しましょうか。目に見える祝福の期待にはネヘミヤ・プロジェクト等といろいろありますが、目に見えない祝福の期待には祈りの成長があります。すなわち、私たちは昨年よりも更に祈りにある成長を求める教会でありたいと願います。
前世紀の英国人スポルジョンは主に用いられた器でした。祈りによって支えらた彼の説教は聴く者にとって大いなる祝福をもたらしました。ここに、祈りにある成長について彼の記事を紹介します。
「また、アセル族のパヌエルの娘で女預言者のアンナという人がいた。この人は、、、宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた。」(ルカ2:36-37)
私たちは祈りによって祈ることを学ぶ。祈れば祈るほど更に回数多く祈ることができる。そしてまた、更によく祈ることができる。気まぐれに祈る人は結果のある、熱い、力ある祈りに達しそうもない。祈りによる大いなる力は、私たちの達することのできる圏内にあるが、これを得るには努力が要る。アブラハムが生涯を通じて神と交わる習慣を持っていなかったならば、ソドムのために成功あるとりなしの祈りをなし得たと思うべきではない。
ヤコブがペニエルで夜もすがら神と力くらべしたのは、それが神と会見する始めての時ではなかった。主が苦しみを受けたもう前に、その弟子たちと一所に祈られた、最もすぐれた驚くべき祈りは、彼(主イエス)が多くの徹夜の祈りと、しばしば夜明け前に起き出て祈りたもうた祈りの花であり、また実であったと見るべきである。
もし人が自分の思う通りに祈りの勇者となり得ると夢想するならば、それは大なる誤りである。天を閉じて雨が降らないようにし、後にまた洪水の門を開いたエリヤの祈りは、彼が神と争って勝を得た、大なる祈りの長い連続の一くさり(鎖の環)であった。ああ、願わくはキリスト者たちがこのことを記憶しているように。祈りにおける忍耐は祈りにおいて有利な地歩を占めるに必要である。これらの大なる仲保者たちは、他の有名な信仰の勇者や、殉教者たちと並べて教えられてれども、たしかに教会に寄与したところの、高貴な存在であった。彼らが人々に恵みをもたらす管となったのは彼らが恵みの座にすわったからである。私たちは祈り得んために祈り、また、私たちの祈りを永続させるために祈りに身を渡さねばならない。(カウマン著・山崎亭治訳、「荒野の泉」)
祈りの成長は実践によってのみ可能であることが教えられています。私たちは昨年よりも更に祈りの成長を求める教会でありたいと思います。