「聖書はこう言っています。『彼に信頼する者は、失望させられることはない。』」
(ローマ人への手紙10章11節)
自分が救われているかどうかを確かに知るのは、大切なことです。もちろん、神は全てをご存知のお方ですから、救いが誰に成就しているかは知っておられます。「主はご自分に属する者を知っておられる」(テモテU 2章19節)と書いてある通りです。では、神が私についてご存知のように、私自身は自分に救いがあるかどうかを知ることができるでしょうか。
自分が救われていることを知るいろいろな「知り方」があります。それは聖書です。先月の記事では、三つの「知り方」、すなわち、感情、善行、儀式を取り上げました。これらは自分が救われていることを知る確かな方法ではないことが、先月の記事で結論付けられたと思います。今月はもう一つの「知り方」を取り上げます。
それは、聖書です。聖書は人間に与えられている唯一の不変不動のことばです。最も頼りになるものは神のことばです。感情、善行、儀式は人為的であって、あまり頼りになりません。そして人間が考え出した哲学や宗教は時代とともに変わり、捨て去られてゆきます。ですからもし人が、聖書が自分の信仰の土台であることがわかると、自分の救いが明確になります。土台は、聖書にあるのです。冒頭の言葉(ローマ10章11節)には、キリストを信じる者が失望しない保証(土台)は聖書にあると記してあります。そのような保証は、人間の領域を越えたものです。
では何を信じれば救われると、聖書は教えているのでしょうか。それはコリントへの手紙第一15 章1節から4節までに書いてあります。それを要約すると三点にまとめることができます。
(1)キリストが自分の罪のために十字架で身代わりの刑罰を受け死んで下さったことを信じる。
(2)死が確認されてキリストは墓に葬られたことを信じる。
(3)葬られてから三日目にキリストは死より復活されたことを信じる。
このような信仰の内容を持つに至るまでには、幾つかの段階があります。個人差はありますが、日本文化を背景に育った人の場合、
「創造主なる神の存在の告白」
「きよい神の前に持つ自分の罪の自覚」
「罪から離れる決心(悔い改め)」
等の段階があります。これらの段階を経て上述の三点を信じる決心をすると、救い主キリストはその人の心に宿ってくださり、その人にご自身を現され、その人は自分に救いが成就していることを知るに至ります。「神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています、、、そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」(ヨハネ5章10-12節)と書いてある通りです。
ご自分に救いがあることを、聖書のお言葉によってはっきりと確信されるよう心からお勧めします。