今まで、他の人を受け入れる、他の人と和合する、他の人と御霊の一致を保つ、他の人を励ますことに知恵を用いる、他の人に対する親切をする、そして、互いに仕え合うの六つの点について書きましたが、今月の最終回では次の三つの点に集中したいと思います。
まず、他の人との心のいやしを計ります。ヤコブの手紙5章16節に「あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。」とあるように、人間関係で心が傷つくとき、それがいやされるには二つのことが必要です。傷つけた側が、まず自分の罪を認めることから始まります。傷つけた側と傷つけられた側の双方が互いのために祈ります。そうする事で傷ついた心はいやされてゆきます。
罪を認めることを省略すると、次が続きません。「私が悪かった」とか「お詫びします」と言うことばを避けたり省略したりせず、相手に伝えることが大切です。そうしないと双方の関係は傷ついたままです。すなわち、お互いに敵対した状態を続けることになります。いくらうわべを繕ってみても、心は傷ついたままです。イエス様が語られた「放蕩息子のたとえ」では、息子はまず自分が神と父に対して罪を犯したことを認め、その後、親子は和解をし、心がいやされています。
次に、他の人の重荷を負い合います(ガラテヤ6:2)。自分の重荷を自分で負うのは当然ですが、時折私たちは負いきれなくて肩代わりをしてもらう必要のある場合があります。日本人には恥の文化が染み付いているためか、負いきれないほどの重荷があっても、なかなか助けを求めることをしません。そんな場合、力に余裕のある人は、気を利かせて、助けの手を伸べるべきです。他の人の重荷を見て、自分には与える余裕があるにも拘わらず、知らぬふりをするのはキリストの心から外れています。「私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。」(ローマ15:1〜2)と、パウロは具体的な指導をしています。
最後に、他の人を愛します。これは愛し合うことです。愛し合っているクリスチャンがキリストのからだである教会の本来の姿です。周囲の人は、その姿に魅かれます。教会の建物、クリスチャンの聖書知識、教会のプログラム等ではなく、愛し合っているクリスチャンの姿が神のご臨在を最も良く現すからです。このことについてイエス様は、「もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ13:35)と言われました。
以上、三ヶ月に渡って「他の人」と言う題目で共に考えました。この題目に関し九つの具体的なポイントを強調しましたが、人の心の中には「自分のことばかり考える」習性がどんなに強く住み着いているかが伺えます。しかし失望することはありません。私たちが聖霊の力によって「心の一新をする」(ローマ12:2)とき、神は私たちを勝利に導いてくださいます。