「ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。」(ヨハネ8:36)
7月4日の独立祭は全てのアメリカ国民が自由であることを覚える祝日です。この自由は無償に天から降ってきた権利ではなく犠牲の血が流されて勝ち取った特権であると、このようなスピーチを政治家はします。そして彼らは「自由はただではない」と言う真理を教えてくれます。では、この自由な国に住むアメリカ人はほんとうに自由なのでしょうか。独立祭にちなんでこの問いに答えてみたいと思います。
多くのアメリカ人は、制限なしに欲しいものを思うままに満たすことを自由だと考えているようです。返済する見込みのない状態にありながらクレジット・カードを気前よく使うことを自由であるとはきちがえ、後で借金の奴隷になったり、女性は自分の胎児の命さえも自分の自由だと考え、堕胎した後で良心の呵責の奴隷になったり、或いは、人生は自分のためだけにあるものと考え自由に遊び(セックス、ばくち等)、後で虚無感に捕われうつ状態に陥り麻薬の奴隷となったりしています。真の自由とは何でしょうか。
クリスチャンの哲学者、J.P.モアランドは「自分が生きるべき道に生きるための力を持っていれば、その人は人生に於いて自由である」(Kingdom Triangle、98頁)と言っています。このことばには二つの要素があります。その一つは、「生きるべき道」です。自由とは必ずしも好きなもの、自分に都合のよいもの、或いは楽しいものではないのです。ジェット機が自由に飛べるのは空中だけであり、魚が自由に泳げるのは水中だけであり、また、どこにいても日本語が自由に話せるのは日本だけです。無制限ではなく枠(わく)があります。
ノン・クリスチャンの友人がクリスチャンに言いました。「君が幸せそうな生活をしているのは、僕にもよくわかる。しかし、もし僕が君のような生活をしたら僕は死んでしまう。」クリスチャンはやりたいことや好きなことを我慢し窮屈で道徳的な生活をし「良い顔」を見せようとしているのではありません。神が支配しておられる世界では、神が示しておられる人間の生きるべき道に生きることが最も自由な生き方です。人間のために予め設定された道に順ずる生き方をすることです。自分が人間として生きるべき道にまだ入っていないので、ノン・クリスチャンにはその道が窮屈に見えるだけなのです。
モアランドのことばのもう一つの要素は、「力」です。自由には力が必要です。空中を自由に飛ぶにはジェット・エンジンが、水中を自由に泳ぐには魚のひれが、そして日本で自由に日本語を話すには日本語力が必要であるように、生きるべき道を自由に生きるには「神の力」が必要です。もともと私たちにはない力です。生きるべき道が自分にわかっているだけでは不充分なのです。「私には善をしたい(自由に生きたい)という願いがいつもあるのに、それを実行することがない。」(ローマ7:18)主イエスのことばにある通り、それは神からもらわなければ得ることのできない力です。
かつてガラテヤ地方のクリスチャンは、モーセの律法や人間の規則を守ることによって立派なクリスチャンになれると考えました。その結果彼らはキリストにある自由を失い律法や規則の奴隷となりました(ガラテヤ4:9)。律法や規則を守ろうとする力と生きるべき道を生きようとする力は同じではありません。前者は人間が出す力であって束縛に導きますが、後者は神からの力であり人を自由にします。「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」(ガラテヤ5:1)