- ソロモンはまた彼がめとったパロの娘のために家を建てた。 <教会便り 2008年7月号より> -
 日毎の聖書朗読のスケジュールが、初夏から「箴言」になり、ゆっくりとソロモン王の書き残した知恵の文書を読みました。読んでいる内に一つの疑問が起こり、それに答えてみようと思いつき、研究しているうちに榎本保郎著「一日一章」に私の疑問に関連する記事が見つかりましたので、七月、八月の二回に渡って連載します。私の疑問は、「ソロモン王は神からいただいた知恵を駆使して自分を守ることができなかったのだろうか」と言うものです。

 ソロモンはエルサレムに神の宮を立てた後、自分の家を建てた。彼は神の宮を建てるのに十三年を要した。彼は王宮を建てるに際し、エジプトからめとったパロの娘のための家をも建てた。このような彼の事業についての記録の中にわれわれは彼が生きた姿勢をうかがうことができるのではなかろうか。否、人の生き方の真実はこのようなところにこそ如実にあらわれるものである。

 彼は決して不信仰な人物ではなかった。天下を取って何よりも先に神の宮の建立に着手したことが、そのことを物語っている。しかし、所詮彼は自分以上には神を愛さなかった人であった。それがいみじくも神の宮に七年、自らの宮殿に十三年を要したという事柄にあらわれている。彼はまた決して神にたいする敬虔を欠く人間ではなかった。しかし、彼は神と共にエジプトの王女をも愛する人であった。これが彼の人柄であり、そこにすでに神の祝福から落ちようとしている彼の姿を見ることができる。

 最初から大きな罪を犯す人は少ないと言われる。「うそは盗人の始まり」などと言って、母から叱られたことを覚えている。小さな罪の恐ろしさは、その罪がいつまでも小さいままではないということである、と言われる。まさにこのことは真実である。ちょっとした妥協、わずかな怠慢、それがもとで、信仰の破船にあう人が多い。パウロがテモテに送った手紙の中に「デマスはこの世を愛し、私を捨ててテサロニケに行ってしまい」と記されている。デマスはルカとともに併記されるようなパウロの高弟の一人であった。しかし、いつの日か彼の中にこの世への愛着の芽が芽ばえ、やがて信仰の師から離れ、信仰を失ってしまったのである。私たちのうち、一体だれがデマスのような弱さをもっていないといえる者があるだろうか。

 主イエスはエルサレムの宮で、「さいせん箱にむかって座り、群衆がその箱に金を投げ入れる様子を見ておられた」ことがあった(マルコ12:41)。なぜ主イエスはこのようなことをなされたのであろうか。そここそ人の心が最もあらわとなる所と思われたからではなかろうか。

 主イエスを「主」と呼ぶことはやさしい。しかし、具体的な生活の中で、主イエスを主として生きることは決してやさしいことではない。主はきょうも、さいせん箱のかたわらに座して、私たちの投げ入れる様子を見ておられる。ソロモンは純金の燭台を神にささげたと記されている。私たちも、神に愛されている者として神を愛する者であるならば、純粋な心を持って私たちの信仰をささげゆく者となろうではないか。神は私たちの不信仰に対して寛容でありたもう。しかし、神は私たちの不信仰を喜ばれるかたではない。

 榎本保郎著「一日一章」より
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