- 救いの確信(上)<教会便り 2002年6月号より> -
「そして、ふたりを外に連れ出して『先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。』」と言った。(使徒16:30)

 自分が救われているかどうかを確かに知るのは、大切なことです。もちろん、神は全てをご存知のお方ですから、救いが誰に成就しているかは知っておられます。「主はご自分に属する者を知っておられる。」(2テモテ2:19)と書いてある通りです。では、神が私についてご存知のように、私自身は自分の救いが成就していることを知ることができるでしょうか。

 自分が救われていることを知るにも、いろいろな「知り方」があります。その一つに気持ちの盛り上がりがあります。気持ちが盛り上がると、自分が救われていることに納得します。確かに盛り上がる気持ち(感情)には強い力があり、自分の中から確信が湧き上がる経験をします。しかし、気持ちには起伏(上がり下がり)があるため、気持ちが優れないときには確信が沸いてきません。そうなると、自分が救われていることがわからなくなってしまいます。

 自分が救われていることを知るもう一つの「知り方」は、善い行いです。善行が習慣になると、「自分は、以前よりましな人間になっている」と自己評価します。善行は良い種蒔きですから、良い収穫を刈り取り祝福の多い人生に導きます。しかし、自分が以前よりもっと善い行いをしていると評価しているのは、あくまでも自分であり、自分が基準です。ところがその判断をする自分が年齢と共に変わっていくのです。例えば、十年前は自分の善い行いを見て自分は救われていると納得していたのに、十年後の今はそのように感じないかも知れない。それは、判断をする自分(基準)が変わったからです。そうなると救いの確信は、歳月と共に消えてしまったことになります。

 自分が救われていることを知るもう一つの「知り方」は、教会の儀式です。確かに儀式には私たちの信仰を固める力があります。洗礼を受ける決心をしたため信仰が定着した、と言うあかしを度々耳にします。すばらしいことだと思います。しかし、教会の儀式は信じる者の「信仰」を前提としています。決して強制される儀式ではありません。教会はその人に「信仰」があると見た上で儀式を施します。ですから、その人の「信仰」が焦点になります。ということは、振り出しに戻ったわけです。結局、自分が救われていることは、自分で知らなければならないのです。人任せにはできません。

 次回(7月)ではもう一つの「知り方」を取り上げます。
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