ずっと以前に私の心に強く迫った話しを最近もう一度読み、その時と同じような感激を覚えた。ロバート・マンガー師が以前「私の心、キリストの家」と言う説教をされ、それが要約されて小冊子になった。永い間の実り多いミニストリーを終えられ、北カルフォルニアで晩年を過ごされた。
キリストによって救われた私たちが、自分の心の王座をキリストに明け渡すなら、キリストは喜んでその王座に座り、私たちの人生を最善に導いて下さる、と言う内容のものである。キリストは忍耐強いお方であって、私たちが自分でそう決心し、自分の人生を治めて下さいとお願いするのを待っておられると言う。マンガー師のお話しに合わせて聖書の中に出てくる二人の人物について考えてみた。
人がどんなに豊かで知恵に富み幸いと思われる環境に浸っていても、過ちに陥ったり虚無感に囚われたりするのは結局、人は自分の人生を自分で正しく治めることが出来ないことの現れに過ぎない。驚くほどの知恵者として知られ、栄華を窮めたソロモン王は、自分の空しい人生について次のように書いている。「私は、私より先にエルサレムにいただれよりも偉大なものとなった。しかも、私の知恵は私から離れなかった。私は、私の目の欲するものは何でも拒まず、心のおもむくままに、あらゆる楽しみをした。実に私の心はどんな労苦をも喜んだ。、、、しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。」(伝道者の書2章9ー11節)ソロモン王は、自分の心の王座を主なる神に明け渡さず人生を閉じた人であったのであろうか。
このような生き方とは対照的に、福音のために囚人となった使徒パウロは、牢獄で次のように証をしている。「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です」(ピリピ2章21節)。ソロモン王は、人生には何の益もないと言ったが、使徒パウロは、死ぬことさえ益であると断言した。大きなちがいである。何がこの違いを産んだのか。ソロモン王の心の王座には彼自身が座っていたが、使徒パウロの心の王座にはキリストが座っておられた。
キリストは、私たちの人生そのものよりも偉大なお方である。もし私たちが心の王座をキリストに渡すなら、当然、人生そのものをすばらしいものに作り上げて下さる。そして、心の王座にお座りになるキリストの御顔には喜びがあり、その喜びは私たちの喜びともなる。キリストは、今も、私たちの心の王座の明け渡しを待っておられる。