- 自由な人<教会便り 2006年3月号より> -
 「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:32)

 私たちを自由にするような「真理」とは、どんな真理なのでしょうか。また、私たちが自由であると感じる「自由感」とはどのような場合にそう感じるのでしょうか。イエス様が語られた上記のことばは、どんな真理とどんな自由との組み合せなのでしょうか。

 まず真理について考えてみましょう。真理にも幾つかがあり、全ての真理が私たちを自由に導くと言う確証はありません。例えばモーセの律法は真理でしたが、自由をもたらさず、「すべての人を罪の下に閉じ込めました。」(ガラテヤ3:22)上記の個所(ヨハネ8:32)でイエス様が教えておられる真理とは、イエス様を信じイエス様に従う者であることが、この真理を知る条件となります。学識や博学は、無知や偏見からの解放手段にはなるかも知れませんが、「イエス・キリストを人生の主とする弟子になる」手段と考えるには足りません。ですから、この個所でイエス様が教えておられる真理とは、人格関係を指しておられるようです。真理とは、キリストと弟子との「主従関係」だと思います。

 では次に自由について考えてみます。人が自由に感じるのは、どんな場合でしょうか。三つの場合が考えられます。第一に、束縛が解かれたときです。イスラエルが奴隷の家エジプトから解放されたとき、彼らは自由人になった喜びの歌を歌いました(出エジプト15章)。第二に、物事がうまく(効率的に)運ぶときに自由を感じます。例えば、自転車は走り出してから走行能率が上がるので乗っていると自由を感じます。しかし、止まっている自転車に乗ると不自由さを感じます。また、ネヘミヤの指導のもとでエルサレムの城壁修繕工事は効率良く進み、工事が僅か52日間で完了した時、民は自由を感じ歌いました(ネヘミヤ7:1)。第三に、選択が与えられると自由を感じます。レストランに入ると、必ずメニューが手渡されます。メニューを見て、来客は自由を感じます。また、創造主の神は、アダムとエバに「善悪の知識の木」から実を取って食べないように命じられましたが、その戒めに従うか従わないかの選択は彼らに与えておられたので、彼らは自由でした。アダムとエバはロボットではありませんでした。

 自由を感じさせるこれら三つの中のどれが、真理(主従関係)を知ることの結果なのでしょうか。「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」その答えは、第一と第三ではないでしょうか。主イエスと主従関係にある者は、罪の束縛からの解放感(ローマ6:7)と、罪を犯すか犯さないかの選択(ローマ6:14)を持っています。しかし、キリストの十字架による救いにあずかっていない者は、罪の奴隷ですから(ヨハネ8:43)、その選択はありません。しかし、イエス様の弟子には、罪を犯すか犯さないかの選択があり、ほんとうに自由なのです。あなたは、その選択をどのように生かしておられますか。
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