今年の11月にはアメリカの大統領選挙が行われます。それに向かって二大政党は、各党の大統領候補者を選出するための運動でおおわらわです。自分こそ我が政党の指名候補者として最適であると主張し、他を扱き下ろしてでも有権者の好意を勝ち取ろうとする姿を見ます。これは選挙の年には避けられない必要悪なのでしょうか。
その中で、先日或る政党の候補者が競う相手に対する印象深い発言をしました。「ことばは、安っぽい」(Words are cheap)と言って、雄弁な相手がいかに実績に欠ける人材であるかを暗示したのです。確かに政治家の発言には、実績の伴わないことばが頻繁に出てくることは否定できない事実です。増税はしないと公約しながらも、止むを得ず増税に踏み切ったり、二大政党の反目を超えて国民のために法案の通過を心掛けますと言いながらも、国会はしばしば政党反目の暗礁に乗り上げてしまいます。ことばは安っぽい、と聞かされれば有権者はうなずくでしょう。
主イエスも行いの伴わないことばがいかに空しいものであるかを、たとえの中で教えておられます(マタイ21:28〜32)。兄はお父さんに、仕事をします、と言っても実際には仕事をしませんでした。兄は当時の宗教指導者をさしていました(45節)。主イエスも彼らのことばは安っぽいと言う厳しい評価をなさったのです。
しかしよく考えてみると、ことば自体は安っぽくありません。ことばは意志の伝達を計る一つの方法ですから、意志が正しく伝われば、ことばの役目は充分に果たされたことになります。残ることは、そのことばの実現です。発言者がことばを実現しない場合、ことばが安っぽいのではなく、発言者が安っぽいのです。約束(誓約、合意、国交条約)を守らない者は、安っぽいと見なされるわけです。
主イエスは十字架に架けられる前、ご自分が葬られてから三日目に死から復活なさることを何回も言われました。主のおことばが人々にどれだけ理解されていたかは疑問ですが、聖書にはっきりと記述されていることから、主のおことばは確かに伝達されていたことがわかります。しかし、聞いた者たちは主のおことばの真実性を信じなかったようです。「わたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます」(マルコ14:28)のおことばを聞いたときには、弟子たちはその真実性を信じていませんでした。キリストの処刑を計ったユダヤ人たちにも三日目に復活なさると言う約束のことばははっきり伝わっていましたが(マタイ27:64)、彼らもおことばの真実性を信じていませんでした。皆のものが、イエスは復活されるはずがないと思い込んでいたからです。
しかし、キリストは三日目に復活なさったのです。主イエスのおことばは真実です。ですから、主イエスのご人格は尊厳に満ちています。主イエスは神です。
復活なさった主イエスにお会いして、弟子たちは復活の事実を喜び、その事実を決して否定しませんでした。「私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」(使徒4:20)彼らは自分の血で自分の証言に封をしました。安っぽい証言ではありません。
復活祭(今年は3月23日です)の主旨は、イースターバニーや色彩卵ではなく、キリストの復活を感謝し喜ぶことです。それは聖書に記されている弟子たちが残してくれた「重い」証言に基づいたものです。この証言こそ私たちの感謝と喜びの泉です。いったい誰が安っぽい復活祭を毎年繰り返そうとするのでしょうか。今年の復活祭にはじっと座って、第一コリント人への手紙第15章を静かに読み通してみませんか。きっと感謝と喜びを経験されると思います。