今回は第三のいのちの目的、訓練について話します。神が喜ばれることは、私たちが訓練を受けてキリストの御姿に似るように変えられることです。東洋の宗教には、滝に打たれて修業を積んで強くなる、と言う思想がありますが、強くなる目的は自己の向上ですから、そのようなものは自分中心の思想です。しかし訓練される目的が神の喜びである場合、中心は神です。親が子どもの成長を喜ぶように、神はキリストを信じた者がキリストの姿に似るための訓練を受け成長することを喜ばれます。
そのため神は、あらゆる手段を用いて私たちを訓練して下さいます。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」(ローマ8:28−29)神の私たちに対するビジョン(目標)はキリストに似る姿であり、そのビジョンを達成するための手段は「すべてのこと」を含みます。そして、神のお用いなさる手段は、いかなる手段であっても、必ず私たちの成長に有益です。
神が用いられる訓練の手段には、大きく分けて(1)いつも使われている手段と(2)私たちが好まない手段の二種類あります。いつも使われている手段には、聖書と人々があります。私たちのいのちは聖書(神のことば)によって養われ、人々との交流によって訓練されます。
私たちが好まない手段には、患難、誘惑、害を被る等の人生の問題があります。クリスチャンとして訓練され成長すると、問題が無くなり以前より生活が楽になると考えるのは錯覚です。そうではありません。問題は生涯起きます。私たちの好みに拘らず、神はこれらの手段を用いて私たちの内にキリストの姿を形成され、一つ一つの進歩を喜ばれます。
神は患難を通して私たちの信仰(神を信頼する心)を訓練してくださいます。患難の無い生活では、神を信頼する必要がないからです。「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」(ローマ5:3−4)
神は誘惑を通して私たちに服従する心を訓練してくださいます。誘惑を感じながら甲乙の選択をする際、悪を選ばずに善を選ぼうとするのは、服従する心です(マタイ4:1−11)。神は、服従する心を訓練するために誘惑と言う手段をお用いになるのです。
神は害を被ることを通して赦す心を訓練してくださいます。私たちが赦す理由は、私たちが神に対して加害者であるのに、赦されたからです。害を被っても赦すならば、私たちは十字架のキリストに似るのです。神はそのように変えられる私たちを見て喜んでくださいます。キリストは極限の苦しみを受けられても加害者をお赦しになりました(ルカ23:34)。