- 喜ばしいこと<教会便り 2005年5月号より> -


 ついに去る4月20日教会建築工事が開始されました。取壊し工事が終わってから丁度一年目です。私たちにとって、何と喜ばしい出来事ではないでしょうか。待ちに待った基礎工事が始められ、多量の土砂を移動するために敷地の中を自由自在に動き回るブルドーザーの唸る音は、まるで讃美歌のように聞こえます。この喜ばしい出来事に、私たちが神に感謝をしないならば、誰が感謝をするでしょうか。

 建築完成所要時間は凡そ一年半と推定されています。私たちは今まで希望を持って祈って待って来ました。祈りから希望を取り去ると、かなえられることに到達しようとする強い意思だけしか残りません。どんな強い意志の持ち主でも、逆境が長引くと、その意思は崩れます。意思が崩れると祈りも途絶えます。しかし私たちが今まで望みを満たして下さった御方に望みを置いて祈るならば、これからも祈り続けることができます。期待を神において祈りましょう。

 上記の聖書のことばは良く知られている聖句です。リビング・プレーズの25番はこの聖句から作られた歌です。「この日は、この日は、主がつくられた、主がつくられた。我らは、喜ぼう、この日をば、この日をば。この日は、主がつくられた。我らはこの日を喜ぼう。この日は、この日は、主がつくられた。」短い詩の中に「この日」と言う句が、8回も繰り返されていますが、「この日」とは「今日」、すなわち、この歌を歌っている時です。この歌には、「今日は主がお造りになられた一日であるから、この一日を喜びましょう」と言う意味があります。一日の中に何が起ころうと、それが良いことであれそうでないことであれ、主が私たちのために設けておられる時間を喜ぶことは正しいことです。

 しかし、上記の聖句を注意深く読むと、「この日」が「今日」(歌を歌う日)でないことに気付きます。では、この聖句の指す「この日」とは、どの日なのでしょうか。その説明は、その前の二節(22節23節)にあります。イエス様はこの世の指導者たちには捨てられたが、神はイエス様を王としてお立てになられた、その「不思議な日」です。それは、ユダヤ人による不当裁判の判決が下りた時であり、最後の晩餐でユダによって裏切られた時であり、やがてご再臨なさる時です。(それは、二節が新約聖書に引用してあることからわかります。)すなわち、主が選ばれた不思議な日です。それが「この日」であり、私たちは「この日」を喜ぶのです。

 私たちの建築工事開始を喜びましょう。しかし、それ以上に、イエス様が私たちの罪を背負って人々から捨てられ、私たちの救い主、王となられたことを喜ぼうではありませんか。そうすれば、建物が完成した暁に、私たちは「不思議な日」を喜ぶ民であることと同時に、福音を人々に伝えるために建物を用いることができるでしょう。 
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