「アルキポに、『主にあって受けた務めを、注意してよく果たすように。』と言ってください。」(コロサイ4:17)
上記のことばだけを読むと、使徒パウロが弟子アルキポの怠惰を戒めているように解釈できますが、パウロの本心は別であったように思えます。本心はどこにあったのでしょうか。推測してみましょう。アルキポはピレモンの息子(或いは、兄弟)でした。パウロのピレモンへの手紙では「戦友アルキポ」(ピレモン1:2)とパウロが呼んでいます。アルキポは伝道者であったに違いありません。パウロがエペソ伝道を始めたことによって、福音がエペソ東方のルキヤ平原地方にも届き、教会が三つの町(コロサイ、ラオデキヤ、ヒエラポリス)に起こされました。この地方で働いていたもう一人の伝道者がエパフラスでした(コロサイ4:13)。これら三都市の教会に共通した問題が起き、伝道者エパフラスは留守をアルキポに託して、解決策を求めてローマの獄中にいたパウロを訪ねました。エーゲ海とアドリヤ海を経る長い旅でした。
エパフラスから話を聞いたパウロは「コロサイ人への手紙」をしたため、問題の解決策を説明しました。その手紙の締めくくりに上記のことばを書いたのです。それはアルキポの怠惰を戒めるのではなく、エパフラスの働きを肯定し励ますことばでした。ここにパウロのアルキポに対する本心があったのではないかと思われます。(パウロは同じようなことばを弟子テモテにも書いています。)
この地方の教会に共通する問題の一つに「世俗主義」がありました。世俗主義とは、この世のことばかりに心の思いがいっぱいになることです。体は教会にあっても心は世にある状態です。この問題に対処することもアルキポの「主にあって受けた務め」の一つでした。今は幸いにも、コロサイ人への手紙が彼の手中にあります。その中(第三章)に世俗主義への対策が書いてあります。二人の伝道者はその神のことば(指導)をどんなに感謝したことでしょう。
早速、彼らの熱心な働きと祈りによって世俗主義の問題は一応解決したことでしょう。しかしそれは一時的な解決にすぎなかったようです。30年後(紀元95年頃)ラオデキヤの教会はすっかり世俗主義一色で塗りつぶされてしまい、主イエスはこの教会の有様を戒めておられます。「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」(黙示3:17)伝道者アルキポは「主にあって受けた務め」を果たしましたが、教会は世俗主義に陥ってし
まったのです。
どの時代にも世俗主義はクリスチャンに迫ってくる手強い敵です。そのため主はどの時代にも効果ある対策をくださっています。それがコロサイ人への手紙第三章です。第一に私たちが、上(天)にあるものを思い、それを求めなければなりません(コロサイ3:1〜4)。
この地上は私たちの心を引く(誘う)もので溢れています。私たちが意図的に主イエスに思いを向けると、心は上のもので満たされます。第二に、古い人(肉の思い)を脱ぎ捨てます(コロサイ3:5〜9)。肉の思いを心の中で温めません。第三に、新しい人を身に着けます(コロサイ3:10〜17)。新しい人は神を愛し、また人を愛することに専念します。
今月末には感謝祭があります。心から喜んで主に感謝をささげるための準備として世俗主義から離れましょう。そして感謝祭を迎えようではありませんか。