「あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。」(IIテモテ2:15)
最近は、クリスチャンの「経験」が重視され、「教え」はあまり強調されなくなっているようです。クリスチャンの経験の中で特に取り上げられるものは、癒しの経験です。その経験の範囲は広く肉体の癒しから心の癒しまであり、それを経験することが信仰の全てであるかのように語られています。そのため癒しを経験することが教会に出席する大きな理由となり、このような経験をすることができる教会に多くの人々が集まっているようです。その人々にとって聖書の正しい教えを学ぶことは、教会出席の理由にならないのでしょうか。
聖書の教え、特に「神学」は、皆さんに喜ばれない学問であり特殊な人々だけが学ぶものであるかのように考えられているようです。果たしてそうでしょうか。社会学者ウェイド・クラーク・ルーフの調査によると、イエス・キリストを信じている人々でも、死人と話しをする非聖書的な思想、輪廻(りんね)、また星占いを信じている人の割合は全体の25パーセント以上になる、と報告しています。聖書の教えは敬遠されるべきものではありません。また特殊な人々だけが学ぶ学問でもなく、すべてのクリスチャンが慕い愛すべき真理なのです。
イエスは教えられました。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします、、、真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。」(ヨハネ8:31−32、17:17)
使徒ペテロは晩年、聖書の教えに欠けた状態の愚かさを指摘しています。「これらを備えていない者は、近視眼であり、盲目であって、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまったのです。」(IIペテロ1:9)ペテロは、神のご性質にあずかるには聖書の教えが不可欠であることを強調しています。
また使徒パウロは殉教直前、聖書の教えを最優先するよう弟子テモテに指導を与えています。上記(IIテモテ2:15)のことばをもってテモテを奨励した後、聖書の教えに留まりどんなことがあっても忠実にそれを教え続けるよう指導しています。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」(IIテモテ4:2)
真理は、私たちを正しい経験に導きます。しかし経験は、必ずしも私たちを真理に導きません。ですから優先順位は明らかです。聖書の教えが経験に優先します。私たちがこの優先順位を受け入れるならば、聖書の教えを学ぶことは教会出席の強い理由になると思います。