「管理の精神」と言うことばは、難しく聞こえることばであるかも知れませんが、クリスチャンの基本的な生活態度を示す用語です。管理の精神とは、神に任()せられた時間、能力、財産等を神のために用いて神に喜んで頂こうとする態度です。管理者には所有権はなく所有者のものを維持()するために雇()われた人です。
「パロは家臣()たちに言った。『神の霊の宿っているこのような人を他に見つけることができようか、、、さあ、わたしはあなた(ヨセフ)にエジプト全土を支配させよう』」(創世記41:38,41)。エジプトの王パロは、ヨセフの語ることばを聞いていて、ヨセフこそがこれから起ころうとするエジプト経済の大きき危機を乗り切る管理者であると判断()し、彼を総理大臣として任命したのです。そしてこの任命は、多くのいのちを救う結果を生みました。
期待されたヨセフはみごとに大危機を乗り越えました。良い管理者としてのヨセフはどのような「神の霊」の持ち主であったのでしょうか。ヨセフの生涯(創世記37章から50章まで)を通して「神の霊」の三つの側面を見ることができます。
第一にヨセフは、忠実な管理者でした。大なり小なり誰もが持っている物事に飽()きっぽい傾向は、忠実性とは逆方向に働きます。しかしヨセフは、大事にも小事にも、人が見ていてもいなくでも、時が良くても悪くても、神から任()せられたものを忠実に管理した人でした。使徒パウロのことばが強く響きます。「管理者には、忠実であることが要求されます」(第一コリント4:2)。
第二にヨセフは、悪から離れる管理者でした。手腕家()の管理者が必ずしも良い管理者であるとは言えません。ヤロブアムはソロモン王に認められた手腕家の管理者でした(第一列王11:28)が、悪に走り、イスラエルの民に多くの罪を犯させた人でした。しかしヨセフは、善悪のけじめをはっきりし、悪から離れる人でした。ポテファルの妻が姦淫の罪を犯させようと彼に迫ったとき、彼は即座()に脱出し悪から離れたのでした(創世39:12)。罪の「火遊び」をする管理者は失脚()します。
第三にヨセフは、赦()すことのできる管理者でした。ヨセフは、彼を殺そうとした兄弟達を注意深く和解に導きました。彼は兄弟達から悔()い改()めのことばを聞く前からすでに彼らを赦していたので(しかし、彼らが悔い改めなければ、真の和解は成立しません)、彼の心には自由があり、神が彼に委()ねられたたましいをみごとに神の祝福(和解)に導き入れたのでした。赦さない心には自由がなく、自分も罪に陥()ってしまいます。
主よ、私たちに内住される聖霊が周りの人々にもわかるような管理者として私たちを育て上げてください。