「救いの証し その2」 <教会便り 2004年12月号より>
- 尾関 康仁 -
※"何故クリスチャンになる必要があるのか理解に苦しむ"と受洗に反対するご両親に尾関兄は何度もメールを出されたそうです。
「浮かんでは消えるはかない幸福を追い続け、たどり着いた先にあった空虚を体験し、自分が求めていた心の安住と精神的強さは何であったかを発見するまでの過程を両親に伝え」るべく、両親に送られた長いメールが続きます・・・ 自分の人生を振出しに戻し、いちからやり直すために環境変化を求めてアメリカにきました。しかしいつまでたっても克服できない精神的な弱点はまだ残りました。人間関係では自分はねたみとそしりでいっぱいでした。自分の思い通りに人が動かないことに不満を感じるという悪い癖も相変わらず直っていませんでした。自分が相変わらず的を得ないまま我武者羅に努力しているかのような不安に襲われる瞬間もありました。日本での柵から抜け出し一切を捨てて心機一転して始めたつもりのアメリカでの生活でしたが、相変わらずそこには昔となんら変わらない弱い自分がいました。結局何処に行こうと自分は自分だったんです。僕は精神的な強さに憧れました。 いつまでたっても解決できない自分の弱点、何処に行ってもどれだけ努力しても克服出来ない自己嫌悪、永久に捜し求めて見つからないでいる自分の求めるもの、それが僕の心から安らぎを奪いました。僕も疲れていました。浮かんでは消える自分の興味、夢、異性への関心、それらを獲得するため暗中模索しては時とともにそれらへの情熱も消え去りました。それが自分の人生のなかで何度と繰り返されてきました。 そんなある日、友人から聖書をもらい気まぐれで教会の戸を叩きました。聖書に触れ今までの自分がいかに高慢であったか、どれだけ多くの罪を犯しているかを知らされました。また他人を愛することを教えてくれました。ひょっとするとこれで僕が過去どうやっても克服できなかった問題を解決できるかもしれないという期待も持ちました。こうしてアメリカに来てここで聖書に触れる機会を与え、僕をここに辿り着かせてくれたのも神の計画なのかもしれない、そう感じ始めた。しかしそう感じるまでに一年かかりました。 聖書では、人間は神に生かされていることを教えています。粋がって自分は自分の力で生きていると思っていた僕は当然反発しました。罪の代償は死。罪を犯し続けるしかない素性の人間がその代償を払うためには清き人間の身代わりが必要です。神が独り子イエスキリストを地上に送り、全人類の罪の代償として十字架上で処刑したということ。それくらい神は人間を愛したこと、それを受け入れれば人間は救われるということ。いまでもその突拍子もない教えに面食らったことを覚えています。 教会に行き始めて何ヶ月か経ったとき、いつの間にか聖書にも受験勉強の参考書のように沢山線を引いてしまいました(次号につづく)。 |