「救いの証し その3」 <教会便り 2005年1月号より>
- 尾関 康仁 -
※自分の人生を振り出しに戻し、いちからやり直すためにアメリカに渡ってきた尾関兄。友人からもらった聖書がきっかけとなり教会へ通ううちに、「人間は神に生かされている」という教えに反発を感じ、がむしゃらに聖書の勉強を始めたとのことでした。そうして見出した真実なものをご両親に切々と訴えるメールの締めくくりです。 ・・・


 僕の場合はあるドラマチックな事件が起きてクリスチャンになろうとしているわけではありません。ただ日々の生活の中で、いつの間にか聖霊が自分の中に入ってきたかもしれないと感じる瞬間がありました。それは必要な場面で聖書の教えが自分の心をコントロールしてくれていると感じた時です。聖書の教えがなかったら今頃どうなっていただろうと恐ろしくなることもありました。家族親戚のことを考えると簡単にはクリスチャンにはなれません。聖書の全てを本当に信じていいのかという不安もあります。但し徐々に自分の心に聖書の助けを感じているという事実はもう無視することはできなくなりました。

 僕は確かに神様の恵みを感じ始めているんです。これはもう僕には否定出来ません。聖書の助けとは神の御言葉であり、神とイエス・キリストの愛です。神様ならば僕がずっと克服出来なかった問題を解決し心に安住をもたらしてくれるかもしれない。そう思い始めました。事実、教会の人たちと触れているときにも自分は心の安住を感じているんです。

 もしこれが全て神の計画ならば、信仰で神が僕の益となるように、最後はちゃんと僕の努力が報われるように出来上がっている、だからどんな困難にも大胆に向かっていけるし、安心して生活できるかもしれません。それが僕が前述の友人に言いたかった「救われた人生」です。そうした人生を既に送っている人は、人に優しく自分勝手ではなく人のことをまず第一に考え、お金とか名声とかに振り回されない確固とした価値観をもって安定した精神状態を続けています。忙しいと二の次にしがちな他人への思いやりを忘れない、自分が幸せになるために必要なことを知り既に持っている。それが僕には精神的強さに感じます。僕がずっと追い求めた心の安住と精神的な「強さ」は実はこのことだったんだと気づいたんです。今やっと僕はそれを見つけました。やすひと』

 神様と両親の二つの愛に挟まれ悩み続けました。最後にとった私の行動は両親に私の気持を分かってもらえるよう神様に祈ることでした。長い平行線の状態が続きました。そして神様と両親の暖かい愛により私は洗礼にたどり着きました。「誰も私の父の御手から彼らを奪いさることは出来ません。」(ヨハネ10.29)「彼に信頼する者は失望させられることがない。」(ローマ10.11)

 私をガッチリ掴んで放さない神様に絶対的な信頼を置き、私は神様に自分の人生を委ね、これからの人生に臨みます。(終り)
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