※ 今月は西本シリル先生のメッセージをお休みして、「父の日特別礼拝」で、牧師として伝道に生涯をささげられたお父様の証しをしてくださった阿部麗姉のお証しを紹介します。麗姉ご自身、後日「とても救いに近い所に生まれさせていただき感謝でした。」と話されました。
昭和3年(1928年)生まれの私の父は、最初小学校の教師をしていましたがそれをやめ、四国の幼稚園もある大きな教会に赴任しました。楽しくて良い教会だったそうですが、「ここは誰にでも出来るから。」と後任牧師が居なくて困っている、広島の山奥の教会へ自主的に代わり、そこで私は3番目の子供として生まれました。
父は貧乏な開拓伝道に頑張りましたが、その後「もっと勉強がしたい」と、今度は広島から神奈川へ。信仰だけを頼りに4人の子供を連れての冒険とも言うべき転換。最初生活のため日雇い労務者として働き、次に国会議事堂に働きの場が与えられ、そして数年後、やっと念願が叶って再び牧師として茨城の地へ。“人々に神様の愛を語りたい”と願っていた父にとって、夢が叶えられたすばらしい転機でした。父が書いた本の中に、少しの間通過した、日雇い労務者としての日々の事が書いてあるので紹介します。
『「神様なんか無いさ」彼はニコニコしながら言った。私はどきんとして彼の顔を見直した。人のいい彼の顔は全く安心しきっていた。 “神様なんか無いさ”なるほど。私はここに、多くの人々の代弁を聞いた思いをもった。日当1100円。8時から4時まで、私達は雨が降っても、風が吹いてもドラム缶を転がす。ここは横浜。日本石油の集積所である。妙な事情から、日雇い労務者としてここに飛び込んで5ヶ月。私は色々な事を知った。最初は慣れない労働に身体がメキメキと音を立て、週4日しかもたなかった。その名は「ころがし」。危険な仕事でもあった。私は時々休憩所のタバコの煙の中に立って、競輪、パチンコの愛好者でいっぱいの日雇い労務者達に、聖書を語りたいという衝動をもったが、遂になし得ず去った。今私の心に悔いが残る。』
この文章に “神様の伝道のために生きる”と決意していた父の姿が集約されていると思います。誰にも遠慮なく語る事の出来る牧師の道に戻れた事を、父は心から喜んでいました。
この身体がバラバラになる程過酷な仕事をしていた時でさえ、父は一言も「大変だ」「疲れた」と呟かなかったので、私達は父の大変さを何も知らずに育ちました。ちっとも立派な父ではありませんでしたが、感心するのは呟かず、へこたれず、頑張る父の姿。お金もコネも無いのに、何処へでも出かけて行って人とよく話す。損得を計算しない貧乏な牧師であるが故に、多くの信頼を勝ち得、大きな仕事が成立。絶対動かないように見えた大きな山が動くのを、私はこの目で何度も見ました。「神様さえ味方なら大丈夫」と、言葉ではなく語ってくれた父でした。
愚痴ったり、へこたれている父の姿は見た事がありませんでしたが、書斎から出て来る時の父の目が赤い事はよく見ました。きっと大変な事はみんな神様の所へ持って行き、涙しながら祈っていたのでしょう。とことん祈る人でした。
やっと新しい教会を建てた後、父は無念にも病に倒れ、5年間の闘病後、最後は神様に全てを委ね「後は宜しくお願いします。」と祈った数日後、天に帰りました。自分の得を求めず損な道を選んでばかりに見えた父の生涯。でも、損ではありませんでした。父が召されて12年。多くを語らなかった父は、後ろ姿で“全ての判断の基準は主にある”と私に語ってくれたのだと、やっと最近気づきました。
私も父が教えてくれたように、判断の基準を主におき、生きていこうと思います。(終わり)